複雑な公共サービスを再構築:デザイン思考で実現する市民中心の行政改革事例
事例の概要:公共サービスの複雑性克服への挑戦
現代社会において、公共サービスは市民の生活を支える不可欠な基盤でありながら、その複雑性や利用者にとっての分かりにくさが課題となるケースが少なくありません。本事例では、とある先進的な地方自治体が、こうした課題を克服し、市民満足度を向上させるためにデザイン思考を戦略的に導入した事例を分析します。特に、複数の部署にまたがる複雑な行政手続きのデジタル化と、それに伴う利用者体験(UX)の抜本的な改善に焦点を当てます。
直面していた課題:市民と行政の間に存在するギャップ
この自治体がデザイン思考導入以前に直面していた主な課題は以下の通りでした。
- 手続きの複雑性と非効率性: 住民票発行、福祉サービス申請、公共施設の利用予約など、多くの手続きが紙ベースで、市民は何度も窓口に足を運ぶか、ウェブサイト上の複雑な情報を読み解く必要がありました。これにより、待ち時間の増加、書類作成ミスの頻発、行政コストの増大といった問題が生じていました。
- 市民の声の反映不足: サービス改善は職員の視点や既存の業務プロセスが中心となり、実際にサービスを利用する市民の真のニーズや困りごとが十分に把握されていませんでした。
- 縦割り組織による連携の欠如: 各部署が個別にサービスを提供するため、市民は関連する複数の部署にそれぞれ問い合わせる必要があり、一貫したサポートを受けることが困難でした。職員間でも情報共有が不十分で、業務の重複や非効率が生じていました。
- 職員のモチベーションとスキル: 新しいサービス開発や既存業務の改善に対する職員のモチベーションが低下し、デジタル化推進のためのスキルも不足していました。
デザイン思考の具体的な適用プロセス・手法
自治体は、これらの課題解決に向けて、市民中心のアプローチを確立するために以下のデザイン思考プロセスを導入しました。
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共感(Empathize):
- 市民への徹底的なヒアリングと観察: サービスを利用する市民(高齢者、子育て世代、外国人居住者など多様な層)に対して、自宅や区役所の窓口で詳細なインタビューを実施しました。具体的な手続きの場面を観察し、どのような行動を取り、どこでつまずくのか、どのような感情を抱くのかを深く理解するよう努めました。
- 職員へのヒアリング: 実際に業務を行う職員へのヒアリングを通じて、彼らが直面する課題、日々のルーティン、市民との接点での気づきなどを収集しました。
- カスタマージャーニーマップの作成: 収集した情報に基づき、特定の行政手続きにおける市民の行動、思考、感情の変遷を視覚化したカスタマージャーニーマップを作成しました。これにより、潜在的なペインポイントと機会を明確にしました。
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定義(Define):
- ペルソナの作成: 典型的なサービス利用者を代表する複数のペルソナを作成し、それぞれのニーズや課題を具体化しました。
- 課題ステートメントの明確化: 共感フェーズで発見された多数の課題の中から、最も解決すべき核となる課題を特定し、「〇〇という状況にある△△(ペルソナ)は、□□(ニーズ)と感じており、それは(インサイト)からである」といった形式で課題ステートメントを定義しました。例えば、「高齢者は手続きの複雑さにより区役所訪問に強い抵抗を感じており、それはデジタル機器の操作に不慣れで、対面でのきめ細やかなサポートを求めているからである」といった具合です。
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創造(Ideate):
- アイデアソン・ワークショップの開催: 市民、職員(複数の部署から)、外部のUXデザイナーやIT専門家が参加するクロスファンクショナルなアイデアソンとワークショップを複数回開催しました。既存の枠にとらわれない自由な発想を促し、多様な視点から解決策のアイデアを創出しました。ブレインストーミング、KJ法、SCAMPER法などの手法が活用されました。
- ソリューションの選定: 創出された膨大なアイデアの中から、実現可能性、インパクト、市民ニーズへの適合度などを基準に、実現すべきソリューションの候補を絞り込みました。
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プロトタイプ(Prototype):
- ローファイ・プロトタイプ: まずは紙とペンを用いたワイヤーフレームや、簡易的なモックアップを作成し、アイデアの具体的な形を素早く視覚化しました。
- ミッド/ハイファイ・プロトタイプ: その後、デジタルツールを用いてウェブサイトやアプリのインタラクティブなプロトタイプを作成しました。実際に操作感を試せるレベルまで完成度を高めました。
- 最小実行可能プロダクト(MVP)の設計: 全ての機能を一度に開発するのではなく、核となる価値を提供する最小限の機能を持つプロトタイプ(MVP)を特定し、これを初期導入の対象としました。
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テスト(Test):
- 利用者テストの実施: 作成したプロトタイプを実際の市民に試してもらい、操作性、分かりやすさ、満足度に関するフィードバックを収集しました。テストは小規模かつ継続的に実施され、得られた知見は迅速にプロトタイプに反映されました。
- 職員によるテスト: 業務を行う職員にもプロトタイプをテストしてもらい、業務フローへの適合性や効率性について評価を受けました。
- 反復的な改善サイクル: テストで得られたフィードバックを基にプロトタイプを修正し、再びテストを行うという反復的な改善サイクルを継続しました。
成功要因・工夫:変革を推進した戦略的アプローチ
この行政改革が成功した主要な要因と工夫は以下の点に集約されます。
- 強力なリーダーシップとコミットメント: 市長をはじめとする行政トップがデザイン思考の重要性を深く理解し、予算と人的リソースの確保にコミットしました。このトップダウンの推進力が、組織内の抵抗を乗り越える上で不可欠でした。
- 多部署横断型チームの組成: 企画、情報システム、福祉、住民課など、関連する複数の部署から意欲のある職員を選抜し、専任のデザイン思考推進チームを組成しました。これにより、各部署の専門知識を融合し、縦割りの壁を越えた連携が可能になりました。
- 市民の「共創」への積極的な巻き込み: デザイン思考プロセスの初期段階から、市民を単なる「意見を聞く対象」ではなく、「共にサービスを創造するパートナー」として位置づけました。共感フェーズでの深い洞察から、アイデア創出、プロトタイプテストに至るまで、多様な市民がプロセスに深く関与することで、実効性の高いソリューションが生まれました。
- 「小さく始めて大きく育てる」アプローチ: 全ての行政サービスを一度に変革しようとするのではなく、市民の不満が特に大きい特定のサービス(例: 住民票のオンライン申請)に焦点を絞り、MVPを素早く開発・導入しました。この小さな成功が組織全体の信頼を醸成し、次のプロジェクトへの推進力となりました。
- 失敗を許容し、学ぶ文化の醸成: プロトタイプのテスト段階で課題が見つかることは、当然の「学び」であるという共通認識を醸成しました。これにより、職員は失敗を恐れずに新しいアプローチを試すことができ、改善サイクルが加速しました。
直面した壁とその乗り越え方:組織文化の変革
プロセス中に直面した主な壁と、それをどのように乗り越えたかについて分析します。
- 既存の組織文化と職員の抵抗: 「前例踏襲主義」「リスク回避志向」「縦割り意識」といった行政特有の組織文化は、新しいアプローチへの抵抗を生み出しました。
- 乗り越え方: 推進チームは、成功事例を積極的に庁内へ発信し、デザイン思考がもたらす具体的なメリット(市民からの感謝の声、業務効率化など)を可視化しました。また、職員向けの定期的なワークショップや研修を通じて、デザイン思考の基本的な考え方や手法を体系的に教育し、実践の機会を提供することで、徐々に抵抗感を払拭し、意識変革を促しました。
- 予算と時間の制約: 公共部門では、予算の制約や短期的な成果を求める圧力が大きく、長期的な視点でのデザイン思考導入が困難な場合があります。
- 乗り越え方: MVPアプローチにより、低コストで迅速にプロトタイプを作成し、短期間で目に見える成果を出すことに注力しました。また、外部の専門家や既存のデジタル基盤を最大限に活用することで、開発コストを抑え、効率的なプロジェクト推進を実現しました。
- 多様なステークホルダー間の調整: 市民、議会、他部署、外部ベンダーなど、多岐にわたるステークホルダーの意見調整は複雑でした。
- 乗り越え方: プロジェクトの初期段階からすべての主要ステークホルダーを巻き込み、共通のビジョンと目標を明確に共有しました。定期的な報告会や意見交換会を設け、それぞれの懸念事項に丁寧に対応することで、信頼関係を構築し、協力体制を築き上げました。
得られた成果・インパクト:定量的・定性的な変革
デザイン思考の適用により、この自治体は以下のような顕著な成果を達成しました。
- 定量的成果:
- 特定の行政手続き(例: 住民票の写し発行)における窓口での待ち時間が平均50%削減されました。
- オンライン申請サービスの利用率が導入後1年で30%向上しました。
- 市民からの手続きに関する問い合わせ件数が20%減少し、行政の対応コストも削減されました。
- 職員の残業時間が平均10%削減され、業務効率が向上しました。
- 定性的成果:
- 市民満足度の向上: サービスが分かりやすくなり、手続きのストレスが軽減されたことで、市民からの感謝の声が増加し、自治体への信頼が向上しました。
- 組織文化の変革: 職員が市民の視点に立って物事を考える「市民中心」の思考が組織全体に浸透しました。部署間の連携が強化され、新しい挑戦を歓迎する文化が育まれました。
- 職員のエンゲージメント向上: サービス改善に直接貢献する機会が増えたことで、職員の仕事へのモチベーションとエンゲージメントが高まりました。
- 新たなサービス創出の土壌: 継続的なユーザー理解とプロトタイピングのプロセスを通じて、市民の潜在的なニーズに基づく新たな情報提供サービスやオンライン相談サービスのアイデアが次々と生まれ、その実現に向けた動きが加速しました。
この事例から学ぶべき洞察:公共部門におけるデザイン思考の真髄
この自治体の事例は、公共部門においてデザイン思考を導入する際に、他の組織が応用できる重要な洞察を提供します。
- 組織文化への適応と変革のバランス: 公共部門特有の堅牢な組織文化は変革の壁となり得ますが、トップの強力なリーダーシップと、小さな成功体験の積み重ねを通じて、段階的に変革のムーブメントを起こすことが可能です。デザイン思考は単なる手法ではなく、組織全体の思考様式と文化を変革するツールとして捉えるべきです。
- 共創による真のニーズ把握: サービス提供者である行政が一方的にサービスを設計するのではなく、サービスの受け手である市民をプロセスに深く巻き込む「共創」のアプローチこそが、真のニーズに応える実効性のあるサービスを生み出す鍵です。多様なステークホルダーの視点を取り入れることで、多角的な課題解決が可能になります。
- 実践と学びのサイクル: 理論だけでなく、実際にプロトタイプを作成し、ユーザーからフィードバックを得て改善を繰り返す「学習のループ」を重視することが不可欠です。失敗を恐れず、迅速に試行錯誤を繰り返す文化は、サービス品質の継続的な向上と、組織の学習能力強化に繋がります。
- 定量的・定性的なインパクトの可視化: デザイン思考導入の成果を定量的データと定性的な変化(市民の声、職員の意識変革)の両面から明確に可視化することは、継続的な投資を正当化し、組織内外の理解と支持を得る上で極めて重要です。
公共サービスは、その性質上、幅広い市民に影響を与え、公平性や透明性が強く求められます。デザイン思考は、これらの特性を尊重しつつ、複雑な課題を市民中心の視点で解決し、より良い社会を築くための強力なフレームワークとなるでしょう。